ヒトの世界も俺の世界も
 もう何も、判らない


   099:愛しい君の声すら雑音になっていく現実に打ちひしがれるだけで

 機械の読み込みが遅くて焦れる。見上げても窓さえ稀であるから冷たい打ちっぱなしのコンクリートがあるだけだ。剥き出しでざらつくそれがリョウの意識の底を舐める。リョウが代表のような真似をしているこの組織は地下組織であるから木の根のように地下へ張り詰めていく。違法な増築や侵略は全て地下に収まり、地表より上は真っ当な連中が何も知らずに庭を作る。地下が違法な工事で抉られていることも知らずにのんきなものだ。潰されて死ぬときには上の奴らも巻き込んでやる。爆発物を使用しての作戦の時には冗談にもそんなことを思わないでもない。苛立ちの発露としてリョウは机の脚を蹴りつけた。けたたましい音がしても誰もこない。このところそんなことが続いているから皆、リョウに近寄らなくなっている。自覚があるから余計に収まりがつかない。悪かったと謝ってしまえば済むかもしれないのに謝罪の意志さえ示す踏ん切りが付かない。
 「リョウ」
まだ少年期の高い声だ。睥睨の目線を向ける先では心配そうな少年が佇んでいる。肉桂色の髪は短いが前髪は額を隠し、一部分はきつく巻いている。その部分だけ少し長めに揃えてあり、その巻く具合はパンにも似ている。肌はくすみもなく頬は薔薇色だ。翠碧の双眸は大きめでぱっちりと輝く。彼の早熟とも言えるほどの頭の良さを覗わせる理知的な煌めきに満ちている。成瀬ユキヤ。
「いい加減にしてよね。気詰まりで仕方ないや」
つけつけと意見してくるだけの実力はある。構成として年若いものが多い団体だがその中でもユキヤは年少だ。繊細で緻密な働きが要求される爆発物と群を抜く情報処理能力を持っている。口をだすだけの実績と実力はある。リョウは明瞭にユキヤを無視した。ユキヤはその幼い顔を怒りに染める。判っていてリョウは無視した。ユキヤの憤りも判るし見えているのに言い訳も取り返しもする気がない。ユキヤが細い肩を震わせるままに放っておく。
「聞いてんの?!」
甲高いだけの音だ。リョウが目を眇める震えにユキヤが過反応した。馬鹿にしてんの? 声は冷静だが声色は冷静とはいえない。握り締めている拳が震えている。
 皆、気を使ってるんだよ。立場を考えて欲しいや。へぇ考えるほどの立場かよ俺。つい口が出た。不味いと思った時にはユキヤの顔色が変わっていた。真っ青に白くなったかと思えば紅を射したように目元や頬を染めた。僕達は誰の指示で動いてると思ってんの? 知らねぇ。担ぎあげておいて言うじゃねぇか。こうなると売り言葉に買い言葉で歯止めは利かないし、利かせるような弱い性質では両方がないから止めどない。うるせぇよ、キャンキャンキャン。お前犬猫か? 黙れよチビは。…吠える理由を作ってるのが自分だっていい加減に気づけば? 見てらんないや。物に当ってそれの修繕にいくらかかると思ってんの。お前が出す金じゃねぇ。皆の金だから僕の金でもあるさ。お前みたいなガキに諭されたくないぜ。リョウだって十分ガキさ。じゃあお前はなんだよ? 
 ユキヤの切り返しはいちいち正論であるから鬱憤が溜まる。ユキヤの方が正しいのだと判っているだけに拍車もかかる。地団駄でも踏みそうなユキヤは必死に怒りをこらえていて、判るだけにもどかしい。素直に謝る言葉が見つからない。馬鹿みたい。あ? リョウなんかバカみたいだって言ってんの! 踵を返すユキヤが突き刺す目線を投げて言い捨てた。大っ嫌い。


 しばらく気詰まりな日が続いている。ユキヤは周りにも判るほどはっきりとリョウと排除した。作戦はこなすし必要な備品も揃えるのだがリョウの言葉に返事をしない。確かめが必要なときはリョウが足を運んだ。大抵滞り無く準備されているがユキヤはリョウと二人きりであるほど避ける。何怒ってンだ。判らないならいい。なんだそれ。ハッキリ言えばいいだろ。どうせリョウには僕の声なんか届かないんだよ。訳が判らないままユキヤはリョウとの会話を打ち切って手元の工作に没頭した。その後はリョウが話しかけても梨の礫だ。苛立ちや虚しさを抱えたリョウがすごすご引き下がる。
 耳鳴りがひどくなった。地下にいるからときおり三半規管が反逆する。不意に襲うそれは大したことではないと思うのに後を引く。そういう時に話しかけられると最悪だ。誰彼かまわず怒鳴りつける。うるせぇよ馬鹿。怒鳴りつけられた方は驚いて萎縮すると引き下がる。必要な連絡は来るがリョウのところまで上ってこないことも増えた。時折、齟齬を起こすので伝えろと怒鳴りつける悪循環だ。こういう時に緩衝材の役目を果たしていたユキヤは知らぬふりを通す。そのしれっとした表情がさらに苛立ちを呼ぶ。八つ当たりだと判っているだけに後味が苦い。グダグダ言うなよ。ユキヤの碧色の目はぷいと逸れる。なんだよ、言いたいことがあるなら言えばいいだろ。言っていいんだ? 試すようなユキヤは明らかに揶揄を含んだ。頭に血の上ったリョウはあっさり承諾した。言えることなら言ってみろ。

「溜まってんじゃないの?」

手加減という選択肢はなかった。周りのどよめきはユキヤの言葉の内容よりリョウがユキヤを殴りつけたことに対してだ。ユキヤは年少でもその実力で地位を固めてきた。その実力の裏付けはリョウの信頼やその度合を元にした作戦であるから、そのリョウがユキヤに手を上げたことは当人の想像以上に波及する。ユキヤの吐いた唾が紅い。白く照るものがあるのは歯が欠けたのかもしれない。なんだ、言えるじゃないか。どういう意味だ。場所を移そうか?
 ユキヤに引っ張られてリョウは個室へ閉じ込められた。リョウが寝起きに使う部屋だ。責任や危険を一手に引き負うリョウへの報酬としてみんながリョウに個室を用意した。渋ったが皆が出しあった結果なのだと言われてリョウは其処へ寝起きした。施錠も可能だ。それは暗にリョウの元へ誰が通っても好いという了解でもある。突き飛ばしておいてユキヤは念入りに施錠した。なんだよ念入りだな。どうせ二人で飛び込むのバレてんだぜ。寝床で泣いているところを見られていいなら鍵を解くよ。もう一度殴りそうになるのを必死にこらえた。なんで俺が泣くんだ。好くってじゃない? 何がいいんだよ。言わせるの? 平手を食わせた。殴った場所を狙ったのでユキヤの頬がひどく腫れた。擦過傷を帯びて血が滲んでいる。そんな強気でいいの? なンだよ。僕がリョウを犯すんだよ。もう一度打たれたいのか?
 ユキヤがリョウに飛びかかった。反射的に防御に回ったのがまずかった。手首を捕らわれて寝台の上に押し倒された。ベッドの上なんて幸運だ。合意の上に見えるもん。誰が合意なんかするんだよ。見えるってことが大事なんだよ。噂が広まったら真実なんて霞むんだから。くすり、とユキヤが笑った。リョウ、教えてあげようか。噂ってだいたい尾ひれがついて突き詰めるとたいしたことないんだ。攻守が逆転してることなんてしょっちゅうさ。どっちが悪いとかもね。広めたもん勝ちなんだよ。うるせぇ馬鹿野郎。喋るなうるせぇ。暴れるのを抑えこまれた。ユキヤの華奢な体躯に抑えこまれた衝撃は大きい。ポイントさえ抑えれば体格差なんて大したことないや。言葉も無いリョウにユキヤは可愛らしく微笑んだ。リョウ、僕の声、聞こえてる?
 戦慄した。リョウにはどよめきが聞こえてもそれが誰の声であるかさえ曖昧だ。ユキヤの声さえ同様だ。耳鳴りがこだまして意識の底をザラザラ舐めるものがある。ぐらりと揺らぐリョウの体をユキヤはさらにきつく拘束した。痛みが走る。呻いてもユキヤは拘束を弛めない。いてぇよ。痛くしているんだよ。ぎりりと皮膚が擦れて鳴った。腫れ上がったユキヤの頬はそれだけが別物のようにユキヤの整った顔を犯す。可愛らしく整っていた顔は不恰好に腫れあがった。リョウの目がそこにばかり注がれて、気づいたユキヤは何も言わない。なに。僕の顔、変? 変じゃねぇけど。痛くねぇのかよ。痛いに決まってるでしょ。唇が重なった。弾かれたように震える腕さえ遮られる。手首の内側を抑えられて痛い。神経を直接なぶられた。
「リョウ、どうして不機嫌なの」
「は?」

「リョウはもう僕の声さえわからないのに、だったら誰の声も聞かないで!」

よく判らないから返事をしない。唸って眉を寄せるリョウにユキヤは可愛らしく笑った。リョウは僕が話しかけても気づかないじゃないか。ユキヤに突き飛ばされてリョウは寝台の上に一人で仰臥した。


 二人で部屋に引きこもってからリョウは聞き分けが出来ない。それでも話しかける面子は決まっているから、たいていリョウがうるせぇと恫喝すると引っ込む。リョウは明確に雄だし威嚇的ななりと態度であるから凄むと相手が萎縮するのだ。イライラした。気ばかりささくれ立つ。ユキヤに指摘されたことは少なからず的を射た。的確であればなお逆らいたくなる。苛立ちは感覚の制度を低めるばかりだ。女性に怒鳴りつけてたしなめられたのは一度や二度ではない。こらえようと思うほど歯止めが効かない。
「リョウ、聞いてんの?」
高い声。
「うるせぇ馬鹿野郎!」
反射的に怒鳴りつけた。その相手が目を見開いてリョウを見据えた。ユキヤだ。リョウの背筋が粟立った。ゾッと冷えるそれに口がわななく。
「…ぁ、あ」
ユキヤは冷たく笑った。それはひどく綺麗で、もろくて美しくて。リョウが、ユキヤを、怒鳴りつけたのだと、言う。怒鳴りつけるだけなら大したことはないのだ。親しくても気に障ることはある。だが今のリョウがユキヤを怒鳴りつけたという事実にはそれ以上の意味があり、ユキヤはそれを読み解くだけの力もあった。その上でのほほ笑みに背筋が冷えた。ユキヤはリョウに与える影響さえ判った上で笑っている。酷薄に。可愛らしく。
「リョウ」
声が。涼しく高く通る。リョウはこらえきれずに目を背けた。そむけたらもう上げられないと判っている目線を伏せた。震える目蓋さえユキヤには見えているはずだった。

「僕を怒鳴るつもりは、なかった?」

優劣は明らかだ。ユキヤはリョウを押し倒した。ユキヤは往来でリョウを抱いた。
それが罰だった。

俺にはもうお前の声が誰のものかさえ判らないんだ


《了》

ずっと書いたまま放置されていた…読み直してもまぁいっか…と…(立ち消え)     2013年4月9日UP

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